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2009年 06月 18日

高貴と卑俗

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卑俗な人間たちには、
全ての高貴で寛容な感情は不得策なものと映るから、
それらが信じがたいことのように見える。
卑俗な人々は高貴な類の事柄を聞くと
眼をパチつかせて、こう言いたがる。

『そこにはきっと何かしらの相当な利益があるのだろう。
われわれは全ての壁を通して見る事はできないから』と。

かれらは高貴な人間がどこかの抜け道で
利益を求めているかのように邪推するのだ。

そして高貴さに利己的な意図や利益がないという点ではっきり
納得がいくと、今度は高貴な人間を愚か者として想定する。

かれらは高貴な人間が喜ぶ姿を軽蔑し、その眼の輝きを嘲笑する。

『なんだって損をすることをよろこんでいられるのだろう。
なんだって見えすいている事柄にむざむざのることができるのだろう。
それは高尚な感情につきまとう理性の病気に違いない』

卑俗な人々はそう考え、軽蔑の目つきをする、
さながら狂人がその狂気によって味わう喜びを軽蔑する様に。

卑俗な人々の特徴は、みずからの利益をわき目もふらずじっと
見つめること、また目的と利益を目指すこの思考が、
自己のなかの最も強い衝動以上に強いということである。

自己の衝動によって不得策な行為に誘われないということ、
これは卑俗な人間の理性であり自尊心である。

そしてかれらと比べれば、高貴な人間は非理性的である。

なぜなら高貴で寛容で犠牲を厭わない人間は、
ほんとうに自己の衝動に従う、
そしてかれの最善の瞬間において、
彼の理性は休止するからだ。

生命を賭して仔を守り、あるいは交尾期にはいると
死の危険を冒しても雌を追いかける動物は、
危険や死のことについて考えない。
動物の理性は休止する。
つまり仔や雌へのよろこびと、
そうしたよろこびを奪われるかもしれないという恐れが、
動物を完全に支配するからである。

動物は平常よりも愚かになる——高貴な人間も同様だ。
高貴な人間は、理性を沈黙させるか、もしくは理性を
従わせるほどの強さを備えた快感や不快感を抱く。
そうしたとき、かれの心臓は頭へと昇ってゆく。
ひとが『情熱』について語るのはこういうときである。

情熱の非理性、そして情熱の逆理性は、
卑俗な人間が高貴な人間を軽蔑する当のものである、

ことにその情熱が、理性の立場からすれば
まったく空想的で勝手に見えるような対象に
向けられている場合はまさしくそうである。

卑俗な人間は、情熱に屈している人間に対して憤慨する。
かれらは人が情熱の為に生命と名誉すら賭すことが理解できない。

高貴な人間は、例外へと向かう。
かれは独自な価値基準を持っている。
だが、かれは大概の場合、己が特殊かつ独自の
価値基準を例外的に持っているということを信じない。

かれは寧ろ、自分の独自の価値と無価値の判断を
一般に通用する価値と無価値と信じ、その為、
理解しがたい非実際的な存在となる。

高貴な人間が卑俗な人間を卑俗な人間として
理解し取り扱うだけの理性の余裕を持つ事は、
ほぼありえないことである。

大概の場合、かれはかれの情熱を万人がそのかげに
秘めている情熱と信じ、まさにこの信仰によって、
情熱はさらに溢れ、雄弁になってゆく。

だが、このような例外的人間たちが己を例外として
感じることができないのならば、どうしてかれらは卑俗な人間を
理解し、ありきたりなものを評価することができようか。

こうしてかれらも人類の愚劣や、
反目的性や、幻想について語る。

そのとき、なんと世界の成りゆきが気違いじみていることか、
またなぜ世界は『世界にとって必要である』ところの
ものを信じようとしないのか、心から不思議に想いながら

——これが高貴なる人々にとっての永遠の不当性である——

(フリードリヒ・ニーチェ「華やぐ知慧」)



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by paranoia1970 | 2009-06-18 05:54 | オススメ


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